2024年01月14日
健康が目減りしてしまいそ
半世紀以上生きてくると、だいたい自分の人生はどんなものか想像がつく。
過去を振り返り、現在を見て、さらに未来を予測する機械臂微創前列腺癌根治手術。
そう大きなどんでん返しはないはずだ。
予想通り、何もなければ、大大大大満足である。
予測できないような大惨事に見舞われたとしたら、それは想定外なので仕方ない。
予期できないことのために、備えよと言われても、、、。
せいぜい、最低限の災害グッズを備えるぐらいか。
病気にならないために過度な気配りや心配をすると、せっかく現在健康なのに、健康が目減りしてしまいそうだ。
健康オタクというらしい。
歳がいくと、あちこちガタが来るのは当たり前なのだから、受け止めるしか手がない。
へんに回避するための奇抜な方法や努力を取り入れ、ストレスを溜めるぐらいなら、普通に病気になったほうがマシ磁力共振 價錢。
わたしは、自分の人生はほぼほぼ終わっていると思う。
あとは、字の如く、余生。
余った生。
余りは、楽で楽しくて解放されて、この上なく幸せ、充実していると感じる。
それは、今までの人生を肯定しているからである。
元々、出世欲ゼロ、偉くなりたい気持ちゼロ。
世の中に認めてもらいたいという気持ちはなかった。
今は、自分の好きなことをしているのが最高にご機嫌。
とは言え、既存レベルを維持するにはある程度の努力が必要である。
何もしないで全てを他人に依存は、ムシが良い。
既存レベルを少し下げるのか、少し上げるのか、徐々に下げるのか、徐々に上げるのか、そのままで推移するのか。
少しの幅は、自然の成り行きだ。
向上心ある人は頑張れば良い。
欲の無い人はそれなりで良い。
なんでも良い。
自分が良いと思えば。
人にどうこう思ってもらおうとすると、ややこしい。
必要以上に、人に迷惑をかけたくないと思う人がいるようだ。
必要以上に思う必要はない。
全く思わず、ふてぶてしい人には怒りを感じるが、少しだけ、すみませんねー、と自覚すればよいのでは。
小さな迷惑は、小さな支え合い。
小さな依存で、皆んな、社会は成り立つ。
大きすぎる迷惑の場合は、命にかかわりそうなら、丸投げもありだろう。
命まで取られそうな案件は、自分一人では処理できない。
例えば、恥ずかしくても命まで取られない。
何度も書くが、ふてぶてしく、当然の権利とばかり開き直り、更に逆ギレされるのは、嫌悪するが。
不運は自分のせいではないにしても、人のせいではない紮肚修身。
誰のせいでもない。
だが、不運がやってきているのは、隣の人ではなく、自分。
なんで?
となる。
宗教やら占いやら、科学で解明できないことを、別のものに頼ろうとする。
不幸な時は、藁をも掴む心境。
自分がそれで立ち直れるのなら、それでよい。
ただし、他人に押し付けてくれるな、と言いたい。
自分教を持つべし。
わたしの実母(存命)は、(そんなものは、あるのか無いのか知らないが)「宇宙教」を信じたらどう?なんて近年、言っていた。
この人には、自分こそ教祖ばりに自己チューなので、「宇宙教」から「自己チュー教」と改名すればよいのでは。
過去を振り返り、現在を見て、さらに未来を予測する機械臂微創前列腺癌根治手術。
そう大きなどんでん返しはないはずだ。
予想通り、何もなければ、大大大大満足である。
予測できないような大惨事に見舞われたとしたら、それは想定外なので仕方ない。
予期できないことのために、備えよと言われても、、、。
せいぜい、最低限の災害グッズを備えるぐらいか。
病気にならないために過度な気配りや心配をすると、せっかく現在健康なのに、健康が目減りしてしまいそうだ。
健康オタクというらしい。
歳がいくと、あちこちガタが来るのは当たり前なのだから、受け止めるしか手がない。
へんに回避するための奇抜な方法や努力を取り入れ、ストレスを溜めるぐらいなら、普通に病気になったほうがマシ磁力共振 價錢。
わたしは、自分の人生はほぼほぼ終わっていると思う。
あとは、字の如く、余生。
余った生。
余りは、楽で楽しくて解放されて、この上なく幸せ、充実していると感じる。
それは、今までの人生を肯定しているからである。
元々、出世欲ゼロ、偉くなりたい気持ちゼロ。
世の中に認めてもらいたいという気持ちはなかった。
今は、自分の好きなことをしているのが最高にご機嫌。
とは言え、既存レベルを維持するにはある程度の努力が必要である。
何もしないで全てを他人に依存は、ムシが良い。
既存レベルを少し下げるのか、少し上げるのか、徐々に下げるのか、徐々に上げるのか、そのままで推移するのか。
少しの幅は、自然の成り行きだ。
向上心ある人は頑張れば良い。
欲の無い人はそれなりで良い。
なんでも良い。
自分が良いと思えば。
人にどうこう思ってもらおうとすると、ややこしい。
必要以上に、人に迷惑をかけたくないと思う人がいるようだ。
必要以上に思う必要はない。
全く思わず、ふてぶてしい人には怒りを感じるが、少しだけ、すみませんねー、と自覚すればよいのでは。
小さな迷惑は、小さな支え合い。
小さな依存で、皆んな、社会は成り立つ。
大きすぎる迷惑の場合は、命にかかわりそうなら、丸投げもありだろう。
命まで取られそうな案件は、自分一人では処理できない。
例えば、恥ずかしくても命まで取られない。
何度も書くが、ふてぶてしく、当然の権利とばかり開き直り、更に逆ギレされるのは、嫌悪するが。
不運は自分のせいではないにしても、人のせいではない紮肚修身。
誰のせいでもない。
だが、不運がやってきているのは、隣の人ではなく、自分。
なんで?
となる。
宗教やら占いやら、科学で解明できないことを、別のものに頼ろうとする。
不幸な時は、藁をも掴む心境。
自分がそれで立ち直れるのなら、それでよい。
ただし、他人に押し付けてくれるな、と言いたい。
自分教を持つべし。
わたしの実母(存命)は、(そんなものは、あるのか無いのか知らないが)「宇宙教」を信じたらどう?なんて近年、言っていた。
この人には、自分こそ教祖ばりに自己チューなので、「宇宙教」から「自己チュー教」と改名すればよいのでは。
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11:07
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2023年12月07日
るとまた着れる日が来
男性と女性のおおまかな違いに、今朝、ふと気づいた。
例外や個人差はあると思うが。
女性は(わたしぐらいのリタイア年齢になると)、暮らしを楽しむことで日々、充実感を得る工料測量。
ものすごくお金がかかるわけではない。
何を食べようかな。
あ、そうだ。昨夜の残りもののカボチャ、ハムとチーズを乗せて焼こうか。
それとも、ミートソースを乗せようか。
一人で自分が食べる、本日のメニューを考える。
生協宅配の申し込み書も、ひとりでほっこり食べられる苺のかき氷、これを頼もう。
今日、帰宅してから食べられるように、宇治抹茶あんみつを解凍しておこう。
(食べることばかり)
何時間か後の楽しみがじわじわ押し寄せる。
好きな器や調度品、花や草木、香りの小物、、、脇役も勢揃い。
小さくなって着れなくなった衣類を手直ししたりして、気分を一新するとまた着れる日が来る天幕 帳篷。
誰に見せるわけでもなく、自分を楽しませてくれるモノ。
自分のこころの中を表現する絵も描いてみたい。
そう、知人Aに言うと、絵画教室に通わないとね、と反応。
べつに習いたいわけではない。人に見せたいわけではない。
発表会や展覧会に出したいわけではない。
自分独自の表現をしたい。
溢れるままにアウトプットをしたい。
だが、その知人Aは基本から習う路線を譲らない。
二人の話は平行線。
次第に語気を強めて行くわたしに、知人Aはヘキヘキ。
「アタマが痛くなってきた」と一言。
で、その話はお開き。
人それぞれ好みの問題で、建設的ではない話に必要以上に熱くなり、わたしも反省した。
実はこの知人A、、、アタマが柔らかそうでいいなあ、と、第一印象を受けた、、、が、カチンコチンだった。
見誤った。
まあそういうこともある。
そもそもわたしは体育会系の人間は苦手だ。
でもわたしが文系、インドア派なので、ほっておくと全く運動をしない。
老体に鞭打ち、健康寿命を維持するため、自分にハッパをかける意味でも、この、アタマカチンコチン体育会系人間と、運動している。
体育会系は、ほんとに困る。
わたしが「足が痛い、膝が痛い」と無理したくないそぶりを見せると、「絆創膏を貼ったらいいですよ」と、取り計らってくれない。
わざと悪いジョーク。聞き飽きた。
こんな人のペースに巻き込まれたら、健康寿命がかえって目減りする。
自分の身は自分で守らなければいけない。
なので、もうダメ、MAX限界、という一歩手前で音をあげることにしている。
ギリギリまで頑張ると、身体を壊しては意味がない。
根性なし、と罵られようが、わたしは健康寿命を第一優先的に考える。
旅行はもちろんのこと、日常生活にまで支障をきたすようなことにでもなったら大変迷你倉。
生活の質が著しく低下する。
自己責任。
なので、自己鍛錬や自己向上などには目を瞑り、ひたすら防衛に回る。
自分はもう闘わない局面に来ている。
例外や個人差はあると思うが。
女性は(わたしぐらいのリタイア年齢になると)、暮らしを楽しむことで日々、充実感を得る工料測量。
ものすごくお金がかかるわけではない。
何を食べようかな。
あ、そうだ。昨夜の残りもののカボチャ、ハムとチーズを乗せて焼こうか。
それとも、ミートソースを乗せようか。
一人で自分が食べる、本日のメニューを考える。
生協宅配の申し込み書も、ひとりでほっこり食べられる苺のかき氷、これを頼もう。
今日、帰宅してから食べられるように、宇治抹茶あんみつを解凍しておこう。
(食べることばかり)
何時間か後の楽しみがじわじわ押し寄せる。
好きな器や調度品、花や草木、香りの小物、、、脇役も勢揃い。
小さくなって着れなくなった衣類を手直ししたりして、気分を一新するとまた着れる日が来る天幕 帳篷。
誰に見せるわけでもなく、自分を楽しませてくれるモノ。
自分のこころの中を表現する絵も描いてみたい。
そう、知人Aに言うと、絵画教室に通わないとね、と反応。
べつに習いたいわけではない。人に見せたいわけではない。
発表会や展覧会に出したいわけではない。
自分独自の表現をしたい。
溢れるままにアウトプットをしたい。
だが、その知人Aは基本から習う路線を譲らない。
二人の話は平行線。
次第に語気を強めて行くわたしに、知人Aはヘキヘキ。
「アタマが痛くなってきた」と一言。
で、その話はお開き。
人それぞれ好みの問題で、建設的ではない話に必要以上に熱くなり、わたしも反省した。
実はこの知人A、、、アタマが柔らかそうでいいなあ、と、第一印象を受けた、、、が、カチンコチンだった。
見誤った。
まあそういうこともある。
そもそもわたしは体育会系の人間は苦手だ。
でもわたしが文系、インドア派なので、ほっておくと全く運動をしない。
老体に鞭打ち、健康寿命を維持するため、自分にハッパをかける意味でも、この、アタマカチンコチン体育会系人間と、運動している。
体育会系は、ほんとに困る。
わたしが「足が痛い、膝が痛い」と無理したくないそぶりを見せると、「絆創膏を貼ったらいいですよ」と、取り計らってくれない。
わざと悪いジョーク。聞き飽きた。
こんな人のペースに巻き込まれたら、健康寿命がかえって目減りする。
自分の身は自分で守らなければいけない。
なので、もうダメ、MAX限界、という一歩手前で音をあげることにしている。
ギリギリまで頑張ると、身体を壊しては意味がない。
根性なし、と罵られようが、わたしは健康寿命を第一優先的に考える。
旅行はもちろんのこと、日常生活にまで支障をきたすようなことにでもなったら大変迷你倉。
生活の質が著しく低下する。
自己責任。
なので、自己鍛錬や自己向上などには目を瞑り、ひたすら防衛に回る。
自分はもう闘わない局面に来ている。
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15:44
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2023年10月11日
暗いマイナス面もある
ブログというものは、読んだ後、活力を得たり、共感したり、爽やかだったりしたほうが良い。
わたしの蝶ブログの場合、役には立たないものの、そういう明るいプラス面もあるが、逆に、暗いマイナス面もある。
そのマイナス面を吐露すると、自分はスッキリするだろうけれど、読む側は、嫌な読後感になる會計軟件。
マイナス面はひたすら隠して(書かないで)、良い面だけを、皆さんのために(自分のために)書く、、、ことはあるだろう。
わたしは、そのジレンマに陥る。
別SNSで、いつもご自分が活躍した輝かしいことを意気揚々と書く人がいる。
そんな人が、投稿が長らくご無沙汰だと思っていると、沈黙を破ってまた書き始める。
前にも増して弾けたような内容。
メリハリがすごい。
落ち込んでいる時や上手く行っていない時は、一切、投稿しないパターン人民币投资。
投稿時は、一種の躁状態。
いろんな人がいる。
わたしは、マイナス人間。
自分の内面に関して暗い陰湿なことを書くと、やたら目が輝く。
逆に自分を良いように書くと、嘘っぽくて居場所がない気になる。
自虐派。
以前は不平不満をブログにぶつけて吐き出していた。
が、よい年齢になると、なんだかみっともないような、周りを気にするようになってきた。
とは言え、まだ、マイナス内容を書くと、目がギンギラ。
ではあるが、その負の部分の表現、文章を消したりしている。
取り繕っているわけだ。
自分で言うのもヘンだが、わたしは取り繕うと自分らしさがゼロになる。
加齢で、落ち着き知恵がつくと、自分に対する評価が気になるのだろうか黑頭粉刺清除。
余計なものが削ぎ落とされるのはカッコイイが、そうではなく、なんだかゴミを誤魔化して見えないところに追いやっているような気分。
かと言って、痛々しく剥き出しは嫌。
そういうお年頃だろうか。
「丸くなる」のは、「歳を取る」ということか。
わたしの蝶ブログの場合、役には立たないものの、そういう明るいプラス面もあるが、逆に、暗いマイナス面もある。
そのマイナス面を吐露すると、自分はスッキリするだろうけれど、読む側は、嫌な読後感になる會計軟件。
マイナス面はひたすら隠して(書かないで)、良い面だけを、皆さんのために(自分のために)書く、、、ことはあるだろう。
わたしは、そのジレンマに陥る。
別SNSで、いつもご自分が活躍した輝かしいことを意気揚々と書く人がいる。
そんな人が、投稿が長らくご無沙汰だと思っていると、沈黙を破ってまた書き始める。
前にも増して弾けたような内容。
メリハリがすごい。
落ち込んでいる時や上手く行っていない時は、一切、投稿しないパターン人民币投资。
投稿時は、一種の躁状態。
いろんな人がいる。
わたしは、マイナス人間。
自分の内面に関して暗い陰湿なことを書くと、やたら目が輝く。
逆に自分を良いように書くと、嘘っぽくて居場所がない気になる。
自虐派。
以前は不平不満をブログにぶつけて吐き出していた。
が、よい年齢になると、なんだかみっともないような、周りを気にするようになってきた。
とは言え、まだ、マイナス内容を書くと、目がギンギラ。
ではあるが、その負の部分の表現、文章を消したりしている。
取り繕っているわけだ。
自分で言うのもヘンだが、わたしは取り繕うと自分らしさがゼロになる。
加齢で、落ち着き知恵がつくと、自分に対する評価が気になるのだろうか黑頭粉刺清除。
余計なものが削ぎ落とされるのはカッコイイが、そうではなく、なんだかゴミを誤魔化して見えないところに追いやっているような気分。
かと言って、痛々しく剥き出しは嫌。
そういうお年頃だろうか。
「丸くなる」のは、「歳を取る」ということか。
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10:11
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2023年08月23日
きっきりで係りの人にやっ
最近、退屈である。
で、今日は意を決して、観たい映画をレンタルした。
TSUTAYAで借りたのだが、そもそもTSUTAYAは、我が街から撤退してしまった。
近隣のTSUTAYAは、電車で行かなければ行けない商務禮品。
で、わざわざレンタルするために電車で出向くのもなんなので、用事がある(と言っても映画を観る)街のTSUTAYAについでに寄った。
ちなみに観た映画は、豊川悦司主役の時代劇。「仕掛人・藤枝梅安2」
池波正太郎作品。暗い映像だった。
で、帰りに寄ったTSUTAYA。
わたしは初心者マーク、ピカピカ。わからないことが、いっぱい。
支払いや手続き、全て、人を介さず、機械。
初めてなので、入会手続きをはじめ、つきっきりで係りの人にやってもらった。
次から自分で一人で出来るか、全く自信がない。
が、とりあえず、わたしがまだ生まれてない頃の映画を借りた展館製作。
そんな古い映画を観てどうするんだ?
何がしたい?
知り合いに、観たら感想を聞かせて、と言われた作品なので、それが気になった。
男女愛のドロドロ映画だそうだ。
高峰秀子主演。成瀬監督。日本の名作。
とりあえず、観よう。
1週間以内に返却しなければならない。
期限を気にしながら何度もTSUTAYAに出向くのは大変なので、郵送で返却する手続きをした。
ちなみに、只今上映中の「シン・仮面ライダー」の庵野秀明監督。
オタクと言われ、こだわり、クセがある監督。
NHKテレビのドキュメンタリー番組で何度か取り上げられている债券市场。
映画を作る側には、相当な思いがある。
で、今日は意を決して、観たい映画をレンタルした。
TSUTAYAで借りたのだが、そもそもTSUTAYAは、我が街から撤退してしまった。
近隣のTSUTAYAは、電車で行かなければ行けない商務禮品。
で、わざわざレンタルするために電車で出向くのもなんなので、用事がある(と言っても映画を観る)街のTSUTAYAについでに寄った。
ちなみに観た映画は、豊川悦司主役の時代劇。「仕掛人・藤枝梅安2」
池波正太郎作品。暗い映像だった。
で、帰りに寄ったTSUTAYA。
わたしは初心者マーク、ピカピカ。わからないことが、いっぱい。
支払いや手続き、全て、人を介さず、機械。
初めてなので、入会手続きをはじめ、つきっきりで係りの人にやってもらった。
次から自分で一人で出来るか、全く自信がない。
が、とりあえず、わたしがまだ生まれてない頃の映画を借りた展館製作。
そんな古い映画を観てどうするんだ?
何がしたい?
知り合いに、観たら感想を聞かせて、と言われた作品なので、それが気になった。
男女愛のドロドロ映画だそうだ。
高峰秀子主演。成瀬監督。日本の名作。
とりあえず、観よう。
1週間以内に返却しなければならない。
期限を気にしながら何度もTSUTAYAに出向くのは大変なので、郵送で返却する手続きをした。
ちなみに、只今上映中の「シン・仮面ライダー」の庵野秀明監督。
オタクと言われ、こだわり、クセがある監督。
NHKテレビのドキュメンタリー番組で何度か取り上げられている债券市场。
映画を作る側には、相当な思いがある。
Posted by kdlekgy at
16:38
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2023年06月20日
物が終わったことを確信
涙あり笑いあり、人生いろいろ、、、と、ありきたりのフレーズを書いてみる。
しかし、ありきたりこそ、幸せが詰まっている。
平凡は嫌、人と同じは嫌、、、それもモチベーションになるなら善しとしよう會計軟件。
本当にこころから思っているのであれば。
クリエイターにとって(わたしはクリエイターではないからまあ助かるけれど)1番恥ずかしいのは、唯一無二の自負で発露したものが、人とかぶること。
人間だもの、同じアイデアでも当然。
苦労して苦心して力の限りを尽くして、汗と涙と血の一滴から生み出したものが、同じようなものが既に出ていたら、、、。
これとは逆の汗も血も涙も出ない方法は、、、流行っているものに乗っかる。
ちょっとアレンジを加える。
皆んなウィンウィン。
ゼロから、何もない道、獣道、荒野を開墾、開発するのは並大抵ではなく、評価も生きているうちには得られないこともある優秀人才入境計劃。
が、ありモノをパクるのは常套手段。
そうやって流行を作り上げて、広げていく。
だが、仕掛け側は、研ぎ澄まされた着眼点、取捨選択が要。
平凡な笑いのネタ、ジョーク、ダジャレ、オチがかぶると、あちゃーっとなるが、それも笑いにする手もある。
場の雰囲気を汲み取り、とっさのアドリブや間合いを取るのが、一種の才能かなと。
だが、お笑いにも流行がある。
かつての引っ張りだこタレント人気も全然面白く感じない、むしろ痛々しく感じたりして、時の移ろいは残酷。
時代の寵児とはそういうもの。
ファンというものは、家族ではないわけで、自由意思であっちへ行ったり、こっちへ来たり。
移動に制限も規定も、義務も責任もない。
特にバラエティ番組(首の皮一枚でまだバラエティ番組を最低限数、持っているようだが)で若い女性に対するジェンダー時代遅れ発言を懲りずにしていると、その人物が終わったことを確信する。
ではあるが、一時期でも、注目され、流行ったのだから、まあよし。
一時代を築いた、世相を反映する時代の証人。
価値観も変わる。
お笑いのネタにする内容やテイストも、時代と共に求められるものが移り変わる。
時代は敏感である。
時代劇然り。
わたしは今、時代劇を直視できない。
聞き流すことも無視することもできない。
次から次へと、ハラスメントの嵐。
作り物だとわかっているが、不快、怒りを通り越して吐き気がしてくる。
神経の傷つきやすい過敏な部分をこれでもかこれでもかと痛めつけるシーンが登場してくる香港人移民加拿大。
誰に向けたらよいのかわからない、憎悪が湧き出て来る。
その大衆娯楽である時代劇が大好きな夫。
日々の安らぎ、癒しにして明日の労働再生力の糧になっている。
その貴重な糧を奪ったりすることは出来ない。権利もない。
なので、隣りの部屋との間にある扉をカチャンとぴったり閉めて、時代劇(その他も)を見てもらう。
これは、TV番組の好みだけに言及できない。
こころの扉でもある。
お互い、相手を傷つけないよう、不快にさせないよう、出来るだけ気遣いする。
考え方や感性、価値観は、変わらない。
なので、線引きする。
変えようと躍起になって無理しないで、近寄らないのが次善策。
そっとグレーゾーンを作り、交わらないように気配りする。
しかし、ありきたりこそ、幸せが詰まっている。
平凡は嫌、人と同じは嫌、、、それもモチベーションになるなら善しとしよう會計軟件。
本当にこころから思っているのであれば。
クリエイターにとって(わたしはクリエイターではないからまあ助かるけれど)1番恥ずかしいのは、唯一無二の自負で発露したものが、人とかぶること。
人間だもの、同じアイデアでも当然。
苦労して苦心して力の限りを尽くして、汗と涙と血の一滴から生み出したものが、同じようなものが既に出ていたら、、、。
これとは逆の汗も血も涙も出ない方法は、、、流行っているものに乗っかる。
ちょっとアレンジを加える。
皆んなウィンウィン。
ゼロから、何もない道、獣道、荒野を開墾、開発するのは並大抵ではなく、評価も生きているうちには得られないこともある優秀人才入境計劃。
が、ありモノをパクるのは常套手段。
そうやって流行を作り上げて、広げていく。
だが、仕掛け側は、研ぎ澄まされた着眼点、取捨選択が要。
平凡な笑いのネタ、ジョーク、ダジャレ、オチがかぶると、あちゃーっとなるが、それも笑いにする手もある。
場の雰囲気を汲み取り、とっさのアドリブや間合いを取るのが、一種の才能かなと。
だが、お笑いにも流行がある。
かつての引っ張りだこタレント人気も全然面白く感じない、むしろ痛々しく感じたりして、時の移ろいは残酷。
時代の寵児とはそういうもの。
ファンというものは、家族ではないわけで、自由意思であっちへ行ったり、こっちへ来たり。
移動に制限も規定も、義務も責任もない。
特にバラエティ番組(首の皮一枚でまだバラエティ番組を最低限数、持っているようだが)で若い女性に対するジェンダー時代遅れ発言を懲りずにしていると、その人物が終わったことを確信する。
ではあるが、一時期でも、注目され、流行ったのだから、まあよし。
一時代を築いた、世相を反映する時代の証人。
価値観も変わる。
お笑いのネタにする内容やテイストも、時代と共に求められるものが移り変わる。
時代は敏感である。
時代劇然り。
わたしは今、時代劇を直視できない。
聞き流すことも無視することもできない。
次から次へと、ハラスメントの嵐。
作り物だとわかっているが、不快、怒りを通り越して吐き気がしてくる。
神経の傷つきやすい過敏な部分をこれでもかこれでもかと痛めつけるシーンが登場してくる香港人移民加拿大。
誰に向けたらよいのかわからない、憎悪が湧き出て来る。
その大衆娯楽である時代劇が大好きな夫。
日々の安らぎ、癒しにして明日の労働再生力の糧になっている。
その貴重な糧を奪ったりすることは出来ない。権利もない。
なので、隣りの部屋との間にある扉をカチャンとぴったり閉めて、時代劇(その他も)を見てもらう。
これは、TV番組の好みだけに言及できない。
こころの扉でもある。
お互い、相手を傷つけないよう、不快にさせないよう、出来るだけ気遣いする。
考え方や感性、価値観は、変わらない。
なので、線引きする。
変えようと躍起になって無理しないで、近寄らないのが次善策。
そっとグレーゾーンを作り、交わらないように気配りする。
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2023年05月18日
らすでに意味もな
黒澤明×カズオ?イシグロ。
1952年の映画がイギリスを舞台に甦った。
「生きる-LIVING」を観た。
この時期、わたしは花粉症のせいもあり、観る前からすでに意味もなく涙毛囊角化症治療。
意味はあるのだが。アレルギー性鼻炎。
まあ少しぐらいなら持病だし、と軽く考えていた。
しかし、この映画、、、感動して涙が止まらなかった。
タオルハンカチはびしょびしょになった。
ヘタをすると、しゃくりあげて泣き始めるのではないか不安だった。
原作は、1952年のようだが、イギリスでもその時代に設定してあった脫毛。
イギリス、、、カッコイイなあ、、、(映画の演出? わたしの先入観?)
わたしは1976年にイギリスに行っている。
スコットランドも訪れた。
イギリスは、古さが修復されきっていない箇所をあちこちに見かけ、ちょっとくたびれていて、イメージしていたピカピカのイギリスと少し違う気はしたが、やはり、どっしりした大英帝国。
まあそれはそれとして。
逸れついでに、、、。
35年以上前に、映画「生きる」のビデオをいただいたことがある。
多分ダビングしたコピーだと思うが、それを送ってきた人がわたしに「観たか観たか」と何度も問うてくる。
はっきりいってわたしはまだ若かったので、全く興味がなかった。
「まだ観てない」と答えると、その人物は明らかに気分を害していた。
当時わたしは30歳そこそこ、その人物は50歳は超えていたと思われる。
わたしはインターネットデビューをした頃で、いろんな人と知り合った。
結局、そのビデオを(渋々)観たのだが、最後のブランコ?シーンしか思い出せない。
ちゃんと観たのだろうか?
いささか疑問である。
送ってきてくれた人にしてみれば、感銘を受けた推しの映画だったのだろう証婚場地。
今もうちのキッチン横のストック棚にそのビデオはある。
悪いことをした、と反省する。
が、なんだか当時はちょっと引いてしまった。
やたら大きく引き伸ばしたわたしとの写真も送られてきた。
今思えば、ストーカーに発展しなくて良かった。
その人も現役の教頭先生かなにかだったので、あまり変なことは出来なかったとは思うが。
1952年の映画がイギリスを舞台に甦った。
「生きる-LIVING」を観た。
この時期、わたしは花粉症のせいもあり、観る前からすでに意味もなく涙毛囊角化症治療。
意味はあるのだが。アレルギー性鼻炎。
まあ少しぐらいなら持病だし、と軽く考えていた。
しかし、この映画、、、感動して涙が止まらなかった。
タオルハンカチはびしょびしょになった。
ヘタをすると、しゃくりあげて泣き始めるのではないか不安だった。
原作は、1952年のようだが、イギリスでもその時代に設定してあった脫毛。
イギリス、、、カッコイイなあ、、、(映画の演出? わたしの先入観?)
わたしは1976年にイギリスに行っている。
スコットランドも訪れた。
イギリスは、古さが修復されきっていない箇所をあちこちに見かけ、ちょっとくたびれていて、イメージしていたピカピカのイギリスと少し違う気はしたが、やはり、どっしりした大英帝国。
まあそれはそれとして。
逸れついでに、、、。
35年以上前に、映画「生きる」のビデオをいただいたことがある。
多分ダビングしたコピーだと思うが、それを送ってきた人がわたしに「観たか観たか」と何度も問うてくる。
はっきりいってわたしはまだ若かったので、全く興味がなかった。
「まだ観てない」と答えると、その人物は明らかに気分を害していた。
当時わたしは30歳そこそこ、その人物は50歳は超えていたと思われる。
わたしはインターネットデビューをした頃で、いろんな人と知り合った。
結局、そのビデオを(渋々)観たのだが、最後のブランコ?シーンしか思い出せない。
ちゃんと観たのだろうか?
いささか疑問である。
送ってきてくれた人にしてみれば、感銘を受けた推しの映画だったのだろう証婚場地。
今もうちのキッチン横のストック棚にそのビデオはある。
悪いことをした、と反省する。
が、なんだか当時はちょっと引いてしまった。
やたら大きく引き伸ばしたわたしとの写真も送られてきた。
今思えば、ストーカーに発展しなくて良かった。
その人も現役の教頭先生かなにかだったので、あまり変なことは出来なかったとは思うが。
Posted by kdlekgy at
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2023年04月11日
応援したくても手が緩む
娘たちの仕事関係のことを聞いているとアタマが痛くなった。
わたしには到底出来そうもない。
だからとらいって、子育てサポートは引き受けるから、仕事に全力投球してちょうだい、とは、言い切れないわたし。
LINEでのやり取りも、無難なものに落ち着く。
受け皿を用意しないで、どんどん飛躍させるのはいいが、跳び上がった後のフォローを誰がするのか加拿大留學移民。
昔の大黒柱システムならどうにかなっても、幼い子供をたくさん抱えての全力以上の仕事への取り組みには、応援したくても手が緩む。
娘婿も共働き、イクメンを全力でやってもフォローしきれないだろうから、結果的には親元にしわ寄せが行くとすると、、、。
どちらか一方が仕事を辞めて専業主婦(夫)にならざるをえないか、あるいは、子育てを諦めるか。
もう子供は既に存在するわけだから、産む前に計画すべきなのだろうけれど。
厳密に念入りに緻密に計画しても、その読み通りに行かないこともある。
ある程度、場当たり的な流れや勝負も必要になってきそうだ。
子育てか、仕事か。
身を裂かれる思いで仕事をしている人、子育てをしている人も大勢いるだろう。
そんな思いはしたくない、手枷足枷が嫌だ、と、子供を作らないとしたら中一派位、、、。
少子化は自己実現の成れの果てか。
何かを達成するために、何かを犠牲にする。
子育ての代わりに、介護というのもある。
が、介護はお金でどうにかなる。(例外もあるとしても)
しかし、子育てはお金の力を借りたとしても、お金だけだと、あきらかにマンパワーが不足。
次世代を担うまでのプロセスはかなり重要だ。
と、アタマではわかっていても、理想と現実はシーソーゲーム。
個人差もあるし、さじ加減も難しい。
と、死にものぐるいで必死になって子育てに専念したことが成功するとは限らない。
親が仕事と子育ての間で苦悩するぐらいのバランスが案外良いのかも。
とは言え、自由時間、プライベートタイムも確保したいし。
仕事オンリーの人は、寝ずに仕事するのか。
わたしの両親は高度成長期を支えるモーレツ(死語)世代だったので、ほぼ休みなく仕事だったが、その背中を見て育ったわたしが、こんなサボりなんだから、なんとも言えない。
仕事も家庭も子育ても、混じりに混じって人生、味が出るのではなかろうか。
応援はするが、わたしは自分の身体を削ってまで無理はしない主義。
無理をして自分の器を大きくする成長期は遠に過ぎた。
それで身体を壊したりすると、サポートする側からサポートされる側に転じ、娘たちに逆に迷惑をかける。
というか、(一緒に旅行したりすると)、余計なことはしないで自分のことは自分でしてね、と娘に釘を刺されている。
自分の能力を考え、出来る範囲内で協力する。
そこそこ、望みの第二志望ぐらいが叶えば御の字だevent venue TST。
わたしには到底出来そうもない。
だからとらいって、子育てサポートは引き受けるから、仕事に全力投球してちょうだい、とは、言い切れないわたし。
LINEでのやり取りも、無難なものに落ち着く。
受け皿を用意しないで、どんどん飛躍させるのはいいが、跳び上がった後のフォローを誰がするのか加拿大留學移民。
昔の大黒柱システムならどうにかなっても、幼い子供をたくさん抱えての全力以上の仕事への取り組みには、応援したくても手が緩む。
娘婿も共働き、イクメンを全力でやってもフォローしきれないだろうから、結果的には親元にしわ寄せが行くとすると、、、。
どちらか一方が仕事を辞めて専業主婦(夫)にならざるをえないか、あるいは、子育てを諦めるか。
もう子供は既に存在するわけだから、産む前に計画すべきなのだろうけれど。
厳密に念入りに緻密に計画しても、その読み通りに行かないこともある。
ある程度、場当たり的な流れや勝負も必要になってきそうだ。
子育てか、仕事か。
身を裂かれる思いで仕事をしている人、子育てをしている人も大勢いるだろう。
そんな思いはしたくない、手枷足枷が嫌だ、と、子供を作らないとしたら中一派位、、、。
少子化は自己実現の成れの果てか。
何かを達成するために、何かを犠牲にする。
子育ての代わりに、介護というのもある。
が、介護はお金でどうにかなる。(例外もあるとしても)
しかし、子育てはお金の力を借りたとしても、お金だけだと、あきらかにマンパワーが不足。
次世代を担うまでのプロセスはかなり重要だ。
と、アタマではわかっていても、理想と現実はシーソーゲーム。
個人差もあるし、さじ加減も難しい。
と、死にものぐるいで必死になって子育てに専念したことが成功するとは限らない。
親が仕事と子育ての間で苦悩するぐらいのバランスが案外良いのかも。
とは言え、自由時間、プライベートタイムも確保したいし。
仕事オンリーの人は、寝ずに仕事するのか。
わたしの両親は高度成長期を支えるモーレツ(死語)世代だったので、ほぼ休みなく仕事だったが、その背中を見て育ったわたしが、こんなサボりなんだから、なんとも言えない。
仕事も家庭も子育ても、混じりに混じって人生、味が出るのではなかろうか。
応援はするが、わたしは自分の身体を削ってまで無理はしない主義。
無理をして自分の器を大きくする成長期は遠に過ぎた。
それで身体を壊したりすると、サポートする側からサポートされる側に転じ、娘たちに逆に迷惑をかける。
というか、(一緒に旅行したりすると)、余計なことはしないで自分のことは自分でしてね、と娘に釘を刺されている。
自分の能力を考え、出来る範囲内で協力する。
そこそこ、望みの第二志望ぐらいが叶えば御の字だevent venue TST。
Posted by kdlekgy at
09:20
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2023年02月28日
から用意していない
何度目になるだろう。
お盆の仏さんたちへのお給仕(お供え)、伝統メニューがある。
お迎え団子から始まって三食おやつ付き。
御膳、器、全て、江戸時代のからの朱塗り(漆塗り)もので、決まっている澳洲買樓。
のではあるが、、、
プツンと糸が切れたように、伝統メニューを2018年を最後に、それから用意していない。
2019年は定められた器は使ったものの、メニューは手抜き。
2021年は初盆で大変だった。
振り回されていた時代、時期がウソのよう。
こんなに、いとも簡単に伝統行事をパタンと中断してしまってもよいのだろうか。
今は、、、よい、、、と思っている。
また復活する日も来るかも知れない。
司令塔は、わたし。総指揮官は、わたし。
誰も口出しする人も、文句を言う人もいない。
ある日、頂点、トップの座に躍り出た。
なんの策も練らず、たんなるトコロテン方式月餅禮盒。
なんと気持ちの良いことか。
見える景色は周りには何もない。
高い聳え立つ山の頂上に立ち、見えるのは雲か霞。
残念ながら、人の姿はない。
モンゴルの偉いお坊さんになったような気分。
権力闘争や跡目争いもない。
誰もこんなポジション、望まないし、人気もないし、実効性や実用性もないし、権力そのものもない。
美味しいウマミはゼロ。
こんな魅力のないポジションはない。
が、眼の上のタンコブがない、素晴らしい絶景。
この絶景に、山から落っこちても、誰にも影響はないだろう。
ただし、援助隊、救助隊も気づかない。
ババ抜き(トランプのゲーム)のババ、今度は誰が持つ?
ハンカチ落としのハンカチ、誰の後ろに落とされる?
こんな思いで、長年わたしがいたことを誰が知っているだろう?
じつにけしからん思いである。
が、わたしは宗教に振り回されてきた。
重い、深い、弾圧とはまた全く違う、、、ある意味、信仰の強制。
今、話題の宗教二世とはまた別もの。
全く意味合いが異なるのではあるが、微妙に共通点もある。
それは嫁ぎ先の宗教に染まらなければならないこと。
嫁ぎ先の先祖を敬わなければならない。
見たことも聞いたこともない、実質的アカの他人の皆皆様に、延々と祈りを捧げなければならない。
それは、「女偏(へん)に家」と書いて「嫁」と読む入伙前清潔。
字の如く。そのまんま。
宗教行事は絶対的力を持つ。
それを執り行うことは、スゴイことなのだ。
伊勢神宮や平安神宮の宮司さんのようなもの?(ちょっと違うか、明らかに違うな、、、)
お盆の仏さんたちへのお給仕(お供え)、伝統メニューがある。
お迎え団子から始まって三食おやつ付き。
御膳、器、全て、江戸時代のからの朱塗り(漆塗り)もので、決まっている澳洲買樓。
のではあるが、、、
プツンと糸が切れたように、伝統メニューを2018年を最後に、それから用意していない。
2019年は定められた器は使ったものの、メニューは手抜き。
2021年は初盆で大変だった。
振り回されていた時代、時期がウソのよう。
こんなに、いとも簡単に伝統行事をパタンと中断してしまってもよいのだろうか。
今は、、、よい、、、と思っている。
また復活する日も来るかも知れない。
司令塔は、わたし。総指揮官は、わたし。
誰も口出しする人も、文句を言う人もいない。
ある日、頂点、トップの座に躍り出た。
なんの策も練らず、たんなるトコロテン方式月餅禮盒。
なんと気持ちの良いことか。
見える景色は周りには何もない。
高い聳え立つ山の頂上に立ち、見えるのは雲か霞。
残念ながら、人の姿はない。
モンゴルの偉いお坊さんになったような気分。
権力闘争や跡目争いもない。
誰もこんなポジション、望まないし、人気もないし、実効性や実用性もないし、権力そのものもない。
美味しいウマミはゼロ。
こんな魅力のないポジションはない。
が、眼の上のタンコブがない、素晴らしい絶景。
この絶景に、山から落っこちても、誰にも影響はないだろう。
ただし、援助隊、救助隊も気づかない。
ババ抜き(トランプのゲーム)のババ、今度は誰が持つ?
ハンカチ落としのハンカチ、誰の後ろに落とされる?
こんな思いで、長年わたしがいたことを誰が知っているだろう?
じつにけしからん思いである。
が、わたしは宗教に振り回されてきた。
重い、深い、弾圧とはまた全く違う、、、ある意味、信仰の強制。
今、話題の宗教二世とはまた別もの。
全く意味合いが異なるのではあるが、微妙に共通点もある。
それは嫁ぎ先の宗教に染まらなければならないこと。
嫁ぎ先の先祖を敬わなければならない。
見たことも聞いたこともない、実質的アカの他人の皆皆様に、延々と祈りを捧げなければならない。
それは、「女偏(へん)に家」と書いて「嫁」と読む入伙前清潔。
字の如く。そのまんま。
宗教行事は絶対的力を持つ。
それを執り行うことは、スゴイことなのだ。
伊勢神宮や平安神宮の宮司さんのようなもの?(ちょっと違うか、明らかに違うな、、、)
Posted by kdlekgy at
10:12
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2023年01月19日
効性や実用性もない
何度目になるだろう。
お盆の仏さんたちへのお給仕(お供え)、伝統メニューがある。
お迎え団子から始まって三食おやつ付き。
御膳、器、全て、江戸時代のからの朱塗り(漆塗り)もので、決まっている。
のではあるが會計軟件、、、
プツンと糸が切れたように、伝統メニューを2018年を最後に、それから用意していない。
2019年は定められた器は使ったものの、メニューは手抜き。
2021年は初盆で大変だった。
振り回されていた時代、時期がウソのよう。
こんなに、いとも簡単に伝統行事をパタンと中断してしまってもよいのだろうか。
今は、、、よい、、、と思っている。
また復活する日も来るかも知れない。
司令塔は、わたし。総指揮官は、わたし。
誰も口出しする人も、文句を言う人もいない中国资本市场。
ある日、頂点、トップの座に躍り出た。
なんの策も練らず、たんなるトコロテン方式。
なんと気持ちの良いことか。
見える景色は周りには何もない。
高い聳え立つ山の頂上に立ち、見えるのは雲か霞。
残念ながら、人の姿はない。
モンゴルの偉いお坊さんになったような気分。
権力闘争や跡目争いもない。
誰もこんなポジション、望まないし、人気もないし、実効性や実用性もないし、権力そのものもない。
美味しいウマミはゼロ。
こんな魅力のないポジションはない。
が、眼の上のタンコブがない、素晴らしい絶景。
この絶景に、山から落っこちても、誰にも影響はないだろう。
ただし、援助隊、救助隊も気づかない。
ババ抜き(トランプのゲーム)のババ、今度は誰が持つ?
ハンカチ落としのハンカチ、誰の後ろに落とされる?
こんな思いで、長年わたしがいたことを誰が知っているだろう?
じつにけしからん思いである。
が、わたしは宗教に振り回されてきた。
重い、深い、弾圧とはまた全く違う、、、ある意味、信仰の強制。
今、話題の宗教二世とはまた別もの。
全く意味合いが異なるのではあるが、微妙に共通点もある。
それは嫁ぎ先の宗教に染まらなければならないこと。
嫁ぎ先の先祖を敬わなければならない。
見たことも聞いたこともない、実質的アカの他人の皆皆様に、延々と祈りを捧げなければならない。
それは、「女偏(へん)に家」と書いて「嫁」と読む加拿大技術移民。
字の如く。そのまんま。
宗教行事は絶対的力を持つ。
それを執り行うことは、スゴイことなのだ。
伊勢神宮や平安神宮の宮司さんのようなもの?(ちょっと違うか、明らかに違うな、、、)
なにしろ、全エネルギーと知恵と労力と時間とお金をかけて、義務を遂行しなければならない。
宗派が違っても。信仰する神様が違っても。
旧統一教会などは、結婚までさせられるのだから、驚きを通り越して、完全に意味不明の洗脳をさせられる。
そこまで顕著なわかりやすい過激なことはないが、カテゴリー分けすると、宗教グループに属する。
お盆の仏さんたちへのお給仕(お供え)、伝統メニューがある。
お迎え団子から始まって三食おやつ付き。
御膳、器、全て、江戸時代のからの朱塗り(漆塗り)もので、決まっている。
のではあるが會計軟件、、、
プツンと糸が切れたように、伝統メニューを2018年を最後に、それから用意していない。
2019年は定められた器は使ったものの、メニューは手抜き。
2021年は初盆で大変だった。
振り回されていた時代、時期がウソのよう。
こんなに、いとも簡単に伝統行事をパタンと中断してしまってもよいのだろうか。
今は、、、よい、、、と思っている。
また復活する日も来るかも知れない。
司令塔は、わたし。総指揮官は、わたし。
誰も口出しする人も、文句を言う人もいない中国资本市场。
ある日、頂点、トップの座に躍り出た。
なんの策も練らず、たんなるトコロテン方式。
なんと気持ちの良いことか。
見える景色は周りには何もない。
高い聳え立つ山の頂上に立ち、見えるのは雲か霞。
残念ながら、人の姿はない。
モンゴルの偉いお坊さんになったような気分。
権力闘争や跡目争いもない。
誰もこんなポジション、望まないし、人気もないし、実効性や実用性もないし、権力そのものもない。
美味しいウマミはゼロ。
こんな魅力のないポジションはない。
が、眼の上のタンコブがない、素晴らしい絶景。
この絶景に、山から落っこちても、誰にも影響はないだろう。
ただし、援助隊、救助隊も気づかない。
ババ抜き(トランプのゲーム)のババ、今度は誰が持つ?
ハンカチ落としのハンカチ、誰の後ろに落とされる?
こんな思いで、長年わたしがいたことを誰が知っているだろう?
じつにけしからん思いである。
が、わたしは宗教に振り回されてきた。
重い、深い、弾圧とはまた全く違う、、、ある意味、信仰の強制。
今、話題の宗教二世とはまた別もの。
全く意味合いが異なるのではあるが、微妙に共通点もある。
それは嫁ぎ先の宗教に染まらなければならないこと。
嫁ぎ先の先祖を敬わなければならない。
見たことも聞いたこともない、実質的アカの他人の皆皆様に、延々と祈りを捧げなければならない。
それは、「女偏(へん)に家」と書いて「嫁」と読む加拿大技術移民。
字の如く。そのまんま。
宗教行事は絶対的力を持つ。
それを執り行うことは、スゴイことなのだ。
伊勢神宮や平安神宮の宮司さんのようなもの?(ちょっと違うか、明らかに違うな、、、)
なにしろ、全エネルギーと知恵と労力と時間とお金をかけて、義務を遂行しなければならない。
宗派が違っても。信仰する神様が違っても。
旧統一教会などは、結婚までさせられるのだから、驚きを通り越して、完全に意味不明の洗脳をさせられる。
そこまで顕著なわかりやすい過激なことはないが、カテゴリー分けすると、宗教グループに属する。
Posted by kdlekgy at
14:24
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2022年12月09日
のことを優先するほう
旅行のホテルでの朝、5時から起きて「一緒に遊ぼう」と、親の別部屋に行ってトランプを持ってきて準備していた下男児Kの要求をむげに断ったことをわたしは気にしていた。
あの時は同室の3人(ジジババ、上男児Y)全員が皆んな用事(ジジババ)やTVを見たかった(上男児Y)ため、下男児Kのリクエストを断った。
しつこく、遊ぼうよー、と下男児Kはアピールしていたが、皆んなにお断りスルーされ、しくしく泣き出した。
泣いてもなだめるわけじゃなし、トランプに付き合うわけじゃなし、3人ともそれまでの自分の行動を黙々と続けた。
「ごめん、これ今やらないといけないから遊べないのよ」とはわたしは言ったが、下男児Kは、しくしく泣くばかり脫毛學生。
遊べないものは遊べない。
「ひとりでトランプしろ」と上男児Yに言われ、三角座りして下男児Kは膝をかかえていた。
もう小学2年にもなって、いくらなんでもそんな自分の思いが達成できないからって、めそめそしているのには、可哀想でもあり、また、でもなあ、、、と、わたしは自分のことを優先するほうが大事と強行した。
とは言っても、自分の用事なんて仕事でも緊急事態でもなんでもない自由度の高いお遊びなのだが。
後でママに、この、めそめそ事件を報告すると意外な一言が返ってきた。
「Kは、大人は子供の要望を聞いてくれなくてもいいんだ、無視してもいいんだ、と学んだんじゃないCEF 課程?」
無視した我々が悪いかのような発言にわたしはいささか驚いた。
朝5時から旅先のホテルで子供のトランプに付き合わなければ非難されるのか?
何もすることがないのに、とか、気が進まないならいざ知らず、用事があるという歴然とした理由があるにもかかわらず。(が、たいした用事ではないところが堂々と胸を張れないところ)
単なるトランプではあるが、自責の念を持たなければならないのか、と、わたしの問題意識として脳内に引っかかっていた。
と、長々書いた。
そんなこんなで、そろそろYK兄弟が来る時間になっても来ないと、先日の旅行が頭に浮かんだ。
そういう事情があり、トランプ事件の翌日に本人Kに直接「ごめんねー」と謝ったものの、Kは深くこころを痛めて、ばあちゃんなんか嫌いになっていたらどうしよう、と懸念した。
しかし、孫の言うことばっかり聞かないばあちゃんである。
自分のことも優先することもある。
折り合いをつける。
気に入られるために、なんでもハイハイと要望を飲んでいたらロクなことがない。
フロアは傷だらけ、椅子やソファはクタクタ、べたべたぼろぼろ、仕方ないといってももう10年が経ち、まだ下は2歳(さらに次女のところには、1歳児もいる)、ばあちゃんの生活を脅かす。
なので、そこは、お互い調整が大事なのだ。
あんなに尽くした孫なのに、、、と将来、寄り付かなくなって嘆くよりは、
あまり無理に頑張って尽くさない。
自分が出来る範囲でする。
やがて寄り付かなくなる日は必ず来るから、後悔しないように今の孫たちとの日常を楽しむ。
今、将来、さじ加減が必要だ。
自分や周りに、あまり期待しないこと。
評価を求めてはいけない。
楽しみながら、出来る範囲で奉仕すること加拿大留學。
自分が、自分の祖母を見て、
子供たちから、子供たちの祖母を見て、
孫たちからわたしを見て、
孫育ても順送りかなと。
あの時は同室の3人(ジジババ、上男児Y)全員が皆んな用事(ジジババ)やTVを見たかった(上男児Y)ため、下男児Kのリクエストを断った。
しつこく、遊ぼうよー、と下男児Kはアピールしていたが、皆んなにお断りスルーされ、しくしく泣き出した。
泣いてもなだめるわけじゃなし、トランプに付き合うわけじゃなし、3人ともそれまでの自分の行動を黙々と続けた。
「ごめん、これ今やらないといけないから遊べないのよ」とはわたしは言ったが、下男児Kは、しくしく泣くばかり脫毛學生。
遊べないものは遊べない。
「ひとりでトランプしろ」と上男児Yに言われ、三角座りして下男児Kは膝をかかえていた。
もう小学2年にもなって、いくらなんでもそんな自分の思いが達成できないからって、めそめそしているのには、可哀想でもあり、また、でもなあ、、、と、わたしは自分のことを優先するほうが大事と強行した。
とは言っても、自分の用事なんて仕事でも緊急事態でもなんでもない自由度の高いお遊びなのだが。
後でママに、この、めそめそ事件を報告すると意外な一言が返ってきた。
「Kは、大人は子供の要望を聞いてくれなくてもいいんだ、無視してもいいんだ、と学んだんじゃないCEF 課程?」
無視した我々が悪いかのような発言にわたしはいささか驚いた。
朝5時から旅先のホテルで子供のトランプに付き合わなければ非難されるのか?
何もすることがないのに、とか、気が進まないならいざ知らず、用事があるという歴然とした理由があるにもかかわらず。(が、たいした用事ではないところが堂々と胸を張れないところ)
単なるトランプではあるが、自責の念を持たなければならないのか、と、わたしの問題意識として脳内に引っかかっていた。
と、長々書いた。
そんなこんなで、そろそろYK兄弟が来る時間になっても来ないと、先日の旅行が頭に浮かんだ。
そういう事情があり、トランプ事件の翌日に本人Kに直接「ごめんねー」と謝ったものの、Kは深くこころを痛めて、ばあちゃんなんか嫌いになっていたらどうしよう、と懸念した。
しかし、孫の言うことばっかり聞かないばあちゃんである。
自分のことも優先することもある。
折り合いをつける。
気に入られるために、なんでもハイハイと要望を飲んでいたらロクなことがない。
フロアは傷だらけ、椅子やソファはクタクタ、べたべたぼろぼろ、仕方ないといってももう10年が経ち、まだ下は2歳(さらに次女のところには、1歳児もいる)、ばあちゃんの生活を脅かす。
なので、そこは、お互い調整が大事なのだ。
あんなに尽くした孫なのに、、、と将来、寄り付かなくなって嘆くよりは、
あまり無理に頑張って尽くさない。
自分が出来る範囲でする。
やがて寄り付かなくなる日は必ず来るから、後悔しないように今の孫たちとの日常を楽しむ。
今、将来、さじ加減が必要だ。
自分や周りに、あまり期待しないこと。
評価を求めてはいけない。
楽しみながら、出来る範囲で奉仕すること加拿大留學。
自分が、自分の祖母を見て、
子供たちから、子供たちの祖母を見て、
孫たちからわたしを見て、
孫育ても順送りかなと。
Posted by kdlekgy at
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